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人には添うてみよ、馬には乗ってみよ、酒には酔うてみよ。

NHK交響楽団第1836回定期演奏会を聴いてきました(後)演奏について~カリンニコフ交響曲第1番を中心に~

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 前篇のエントリでは演奏会の話が全く出ずに失礼しましたので、今回あらためてお送りします。といっても行きがかり上、ほとんどカリンニコフの交響曲第1番の話になってしまうのはご了承ください。

 

 

 なお、そんな前篇ですが、未読であればぜひ読んでいただければと。カリンニコフとヤルヴィをご存じなければ特に。

 

 

3710920269.hatenablog.jp

 

 待ちに待ったネーメ・ヤルヴィによるカリンニコフの交響曲第1番。定期演奏会ということで、すっかり慣れた雰囲気の聴衆が多い中、初めてのホールで空前のプログラムとあって、こちらは完全におのぼりさん状態です。

 そんな中、いよいよ開演。ヤルヴィが拍手とともにゆっくりと歩いてきました。実は直前に病気で休養を余儀なくされ、一時は本当に来日できるのかと不安だったのですが、それでも何とかこの演奏会に間に合わせてくれました。

 そして、タクトが上がります。第1836回定期演奏会プログラムC、1曲目のカリンニコフ、交響曲第1番ト短調が始まります。

 

第1楽章:Allegro moderato(ある程度速く)

 この当時の交響曲は4つの楽章から構成されるのが標準的で、第1楽章は対照的な2つの主題が提示され、それらが千変万化の展開を見せた後に元の形(あるいは元に近い形)で再現され、終結部に向かうという「ソナタ形式」と呼ばれる形式で書かれるのが通例でした。

 カリンニコフの交響曲第1番もこの例に漏れません。冒頭、弦楽器が前奏なしで第1主題を問いかけると、いくばくかの経過を経て、問いかけへの応答のような第2主題が提示されます。展開部は若き作曲家の苦心と努力が素直に伺える労作、2つの主題や他の素材を駆使し、静寂と盛り上がりを繰り返します。展開部頂点から再び静けさを取り戻すと再現部に入りますが、今度は第2主題がより力強く、そして情感を込めて奏されます。そして終結部は動と静を繰り返し、静まり返ったところでオーボエが第1主題を寂しげに歌っと、突如大音響が叩きつけられてラストとなります。

 ヤルヴィの演奏は勢いと速度を感じるもの。テンポはしばしば変わりますが、ところどころを遅くして「ためる」というありがちなものの逆で、速めの部分と速い部分との違いが明確というもの。それが彼の個性と言えばそうなのだ、と思う一方で、「歌う」より「鳴らす」感のある演奏に、ロシアの指揮者によるアプローチの系譜を感じたのも確かです。

 

第2楽章:Andante commodamente(歩くような速さで気楽に)

 交響曲の通例に沿って緩徐楽章(ゆるやかな楽章)が置かれていますが、優美な旋律に満ちている点はカリンニコフの個性を際立たせています。穏やかな序奏から始まり、続いてイングリッシュ・ホルンが歌う旋律は、劇的な第1楽章を経た者を癒すかのようです。しかし音楽はすぐに陰り、今度はオーボエが寂寥感に満ちた主題を訴えます。その後やや光が差したかのような雰囲気の中で、ヴァイオリンがゆるやかに下降する音型を奏すると、以後はこれらの3つの旋律がさまざまに組み合わさって繰り返され、憂いを帯びながら次第にクライマックスを迎えます。その後もどこか陰の残るまま音楽は続きますが、徐々に冒頭の序奏が戻ってきます。その序奏が完全に姿を現したところで、何事もなかったかのようにイングリッシュ・ホルンも回帰、しかし今度は陰りを示すことなく、起伏を見せながらも次第に静まってゆき、最後は長調のまま、さりげなく結ばれます。

 ヤルヴィはここではテンポの変化を抑制し、無理に鳴らすこともなく、緩徐楽章はあうまで緩徐楽章と言わんばかりの落ち着いた演奏を示しました。明暗の違いはありながら、いずれも優美で歌謡的な旋律揃いのこの楽章には適切なアプローチでしょう。

 ただ気になったのが、2度目のイングリッシュ・ホルンのソロ。楽譜通り演奏するなら、このソロが終わった直後から2本のオーボエがどちらも加わるはずです。イングリッシュ・ホルンオーボエはしばしば同じ奏者が持ち替えて演奏しますが、この部分に関しては楽譜通り演奏すれば持ち替えは時間が無くて不可能なので、オーボエイングリッシュ・ホルンも別々の奏者が演奏することになります(つまり、オーボエ2人、イングリッシュ・ホルン1人の3人)。

 ところが、この日ステージに上がったのはオーボエ2人で、イングリッシュ・ホルン専門の奏者の姿はありません。そして第2楽章にはセカンド・オーボエイングリッシュ・ホルンを演奏、2度目のソロが終わった後もそのまま吹き続けていました。気になってあとで楽譜を確認したのですが、本来はあり得ない演奏です。この辺がどうなっているのか、もし機会があればぜひヤルヴィに伺ってみたいものです。良い悪いの問題ではなくて、とにかく気になるもので。

 

第3楽章:Scherzo:  Allegro non troppo - Moderato assai(快活過ぎず-非常に穏やかな速さで)

 スケルツォと呼ばれる三拍子でテンポが速めの舞曲に、比較的ゆったりとした中間部が挟み込まれる形式が一般的な楽章。カリンニコフはここでも標準的な形式を踏襲しながら、さほど早くない、かつどこか土臭い(かといって泥臭いとまではいかない)舞曲と、少々物憂げな中間部を組み合わせることで、内容面での独自性を示しています。

 ヤルヴィはここでも飾り気のない演奏を続けます。こういう楽章ですから、妙に華々しさを見せようとしたり、演出に走ったりしてもロクな結果は期待できないですし、実に妥当な選択です。ただそんな中でも金管楽器を中心に、鳴らすべくは鳴らすところはヤルヴィの面目躍如と言えるでしょうか。

 

第4楽章:Finale: Allegro moderato - Allegro risoluto (フィナーレ:ある程度速く-速くきっぱりと)

 冒頭は第1楽章の第1主題が再現されますが、すぐさま空気は一転し、フィナーレにふさわしい華やいだ主題が登場します。本来なら第1楽章同様のソナタ形式となる楽章に、カリンニコフはここで独自の形式を持ち込んだのです。この主題が繰り返される合間に、第4楽章2つ目の息の長い主題、過去の楽章のさまざまな主題が入れ代わり立ち代わり登場します。一種のロンド形式とも言えるでしょうが、その途中からさらに熱を帯びていくと、その頂点で金管楽器が第2楽章の主題を力強く示します。それが突如収まると、第2楽章冒頭の雰囲気が、ただしテンポは速いまま広がっていきます。とはいえそれも長く続かず、再びフィナーレが回帰、さらに盛り上がったところで、満を持して現れたトライアングルの響きとともに、第2楽章の主題が凱歌のように高らかに奏されます。その熱狂が冷めやらないまま、交響曲は大団円を迎えます。

 第1楽章の時点で早めのテンポをとったヤルヴィ、フィナーレも案の定のアップテンポでした。途中大丈夫かと不安になることはありましたが、N響もやるときはやるオーケストラ、最後まで勢いを失うことなく感動のラストになだれ込みました。

 ヤルヴィだ。ヤルヴィのカリンニコフだ。長年あり得ないと思っていた空間に、ついいに私は入ることができたのだ!クラヲタとしての自分の道のりを歩いてきたことが、報われた時でした。

 

 ……で終わりそうになるんですが、もう1曲あるんですよね(汗

 むしろ、クラシック界の常識では最後の大曲がメインです。しかも楽聖ベートーヴェンの「田園」。超のつく有名曲を無視するわけにはいきません。

 ただし私、ベートーヴェン等古典派より昔の作品はまるで詳しくありません(さらに汗)。どうしても自分には関係ある気がしないんですよね。

 なので、あまり詳しくは書けないのですが、それでも書くとするなら……なんというか、「昔ながらのベートーヴェン」というような印象を受けました。

 昔と言っても、ベートーヴェンが生きた時代ではありません。むしろ、楽器や演奏によって作品がつくられた当時の音を再現しようとするアプローチは、かえって比較的最近に定着したものです。ヤルヴィが聴かせたのはそんなアプローチが浸透する前の演奏に聴こえたのです。

 同時代性を重視するか、時代に関わらず響きの美しさを追究するかは難しい問題です。どちらかだけが正しいというものでもないでしょう。ただ、今回のヤルヴィの演奏が、いろいろな根拠なしに浸れる美しさをたたえたものだったとは言えます。

 大胆な解釈を入れるでもなく、装飾に走るでもなく、歴史的正しさに頼らず、今ここにある楽譜、楽器から語らせる……あるいは、形式の美を何よりも尊ぶべき古典派作品だからこそ大事な考え方かも知れません。だとすれば、これまでのキャリアからすれば意外感こそあれ、ヤルヴィは古典派向きの指揮者なのかも知れない、という気もしてきました。

 そして演奏会は終了。ヤルヴィは拍手に応じ、何度もステージ袖から壇上に現れました。「もう今日の演奏はありませんよ」と楽譜を持って退出しても、拍手はなかなか止みませんでした。それはまさに、夢以上のひと時でした。