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人には添うてみよ、馬には乗ってみよ、酒には酔うてみよ。

2015年8月・モンゴル訪問の記録より(転)

 以前のエントリでは街歩きの様子をお伝えしましたが、ちゃんと仕事もしています(当たり前だ)。

 

 

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 今回の訪問の主な目的は、日本・モンゴルの研究者による国際会議に出席して報告を行うこと。報告の内容は下記のリンクをご覧ください。

 

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 2日間の会議のうち、私が報告を行った1日目はモンゴル・日本人材センターが会場で、2日目はモンゴル国立大学第1校舎の円形講義室。西洋風の照明にアリストテレス以来の偉人のレリーフが並ぶ、威厳のある教室です。

 

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 講義室の外は休憩スペースになっています。その外には、モンゴル国立大学の創設者チョイバルサンの銅像が立っています。

 チョイバルサン第二次世界大戦前後のモンゴルの指導者で、ときに「モンゴルのスターリン」と呼ばれる人物。これは同じ時期にともに社会主義国家を率い、同盟関係を築いたことだけではなく、スターリン同様に国内で大粛清を指揮したことにも由来します。ただ一方で、モンゴルの独立維持と国際的地位の確保、ウランバートルの市街地建設といった功績もあり、正負両方の側面を併せ持つ人物です。

 ただし、チョイバルサン時代を特に日本の視点から語るときに、忘れてはならない事実が3つあります。1つ目が日本では「ノモンハン事件」、モンゴルでは「ハルハ河会戦」と呼ばれる、日本・満州国とモンゴル・ソ連との軍事衝突、2つ目が第二次大戦末期のソ連・モンゴルによる対日参戦(モンゴルでは「解放戦争」と呼ばれています)、そして3つ目が、その後のモンゴルによる日本人捕虜の抑留という事件です。

 ソ連による日本人捕虜のシベリア抑留は知られていますが、その際に捕虜の一部がモンゴルに「提供」され、ウランバートルの中心街の建設などの労役に使用されました。各国の原資料を照会したバトバヤル(2002)の研究によれば、12,326名がモンゴルに抑留され、その1割をゆうに超える1,618人がモンゴルで命を落としたのです。

 今回の国際会議では研究報告の終了後、市内の日本人墓地跡へのエクスカージョンがありました。私は前年に続き、2年連続の訪問となります。

 

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 ウランバートル北部にあるダンバダルジャーという地域の外れ。ここはかつて、モンゴルで亡くなった日本人抑留者の半数以上が埋葬された墓地でした。

 

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 その後死亡者の遺骨が改葬されて日本へと帰還したことから、墓地は廃止され、跡地のすぐそばに現在の施設が立てられました。ただ、仏像や碑文等、一部は現在も残されています。今後は日本・モンゴル両国による協力で、公園としての整備が進められるそうで、その計画図が描かれていました。

 

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 かつては日本人墓地入り口付近に建てられていた建物です。現在は当時の墓標(といっても小さな金属のプレートです)を保管しているほか、日本人墓地および施設の歴史を示す写真、日本からの慰霊団による献花等が置かれるなど、小さな記念館のような存在になっています。

 

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 その横には、かつて墓地の存在を示していた碑が今も残されています。「捕虜となった日本兵の死亡者を埋葬した 1945-1947」というのが碑文です。ただし、現在では民間人の抑留者もいたことが分かっています。

 

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 施設の一番上まで上がってきました。すぐ下には、円形のスペースが広がっています。この中央にはモンゴルの全国地図が刻まれており、旧日本人墓地の位置が示されています。

 また、右奥から左手前に、煉瓦で斜めにラインが入っているのが見えると思います。このラインの延長線上では、外壁にわざと隙間ができています。そして、左手前へのラインをさらに延長していくと、日本の方角になるのだそうです。墓地の跡から日本へと、道筋が開けているのです。

 

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 その外壁には、桜を意匠したパネルが2種類、いくつも配されています。

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 最上部には献花台が設置されています。以前に訪れた人々による花が残されていました。

 

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 献花台の上には、天井部を丸く開けたモニュメントが立っています。時間帯によって、丸い光が地上に差すのだそうですが、僅かな時間差で見ることはできませんでした。

 

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 日本政府による慰霊碑の文章。その奥に、仏像。

 

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 建立以来、日本人捕虜の霊を見守り続けた仏像。

 今は、悲惨な歴史を今に伝える承認となっています。

 

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 施設から見たウランバートル。特に近年の住宅地の拡大は凄まじいものがありますが、日本人捕虜がいた当時、ここはおそらくはほとんどが草原だったことでしょう。

 70年近く前、日本とは距離も光景も隔絶したこの場所で、苛酷なノルマや零下30度を下回る極寒、不十分な栄養等の様々な理由から、生きて日本に帰ることなくこの地に埋められた人々がいたのです。

 抑留とは言いますが、有り体に言えば強制連行と強制労働なわけで、どのような国がどのような相手に行ったとしても正当化できることはないでしょう。この事件は、その後日本とモンゴルが国交樹立交渉を行う際にも問題となりましたし、今も忘れ去ってはならないことではあります。

 ただし、抑留に関する研究や記録、さらには抑留の歴史を伝えるこの施設の管理等において、モンゴルの人々が貢献している事実も、ぜひ知っていただきたいと思います。昨年の国際会議では若手のモンゴル人研究者による抑留研究の報告がありましたし、ウランバートルの書店で抑留に関する本も並んでいます(私も購入しました)。何より、このエクスカージョン自体も、モンゴル人研究者たちの協力によって実現したことなのです。

 

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 施設のふもとでは、日本人訪問者による植樹がなされています。私も昨年訪問した時に植樹を手伝う機会がありました。この木々もまた、当地のモンゴル人の管理人によって育てられています。

 

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 日本とモンゴル、両国の人々の手によって、悲痛な歴史を伝え続けるダンバダルジャーの日本人墓地跡。また訪問する日はそう遠くないと思っています。

 

(参考文献) オイドブ・バトバヤル(2002)「第二次世界大戦後のモンゴルにおける日本人捕虜」『スラブ研究センター研究報告シリーズNo.81 日ソ戦争と戦後抑留の諸問題』pp.59-69, URL: https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/81/page_5969.pdf