かつて高知県南西部にあった、幡多郡大正町。平成の大合併で姿を消しましたが、その名は予土線の駅名に今も残っています。
相変わらず人より多いカッパを乗せて、海洋堂ホビートレインが窪川に向けて発車していきます。
列車が去り、静けさを取り戻した窪川方面の線路。カーブを曲がれば、生い茂る草の中に、すぐに消えていきます。
かつて町の玄関口だった駅。敷地も広くとってあります。
東側のホームの奥には、工事用の機械を停められる線路が、今も本線につながっています。その傍らには枕木が積まれ、保線の拠点としての姿を示しています。
近隣の駅と同じく、1日6本の列車しかない時刻表。ただ、この駅は春から秋にかけて走る観光トロッコ列車の、数少ない停車駅でもあります。
1本の細いホームが、上下の線路に挟まれています。同じ構造だった十川駅では行き違いができなくなってしまいましたが、ここでは今も、1日2回は上下の列車が揃います。
江川崎から宇和島方面。線路は山あいの街並みを抜け、左に曲がると、四万十川沿いの山を一直線に貫いていきます。
ホームの西側で、駅舎の屋根が顔を覗かせていました。次の列車はほぼ2時間後、駅舎を通って外に出ることにします。
ホームから駅舎に通じているのは、他の駅でも見かけるコンクリートの通路。国鉄の予算が逼迫する中で作られた無機質な空間が、ローカル線のホームと鄙びた街をつなぎます。
階段を降り、仄暗いコンクリートの通路の先に、木造の駅舎が控えています。ほとんど灰色と茶色の世界に、海洋堂の幟が映えています。
駅前の広場に出てきました。
発車を待つバスと、向いにあるのは観光案内所。近くでは高校生たちが盛り上がっています。都会から見れば小さな駅が、今もハブとして存在しています。
駅前には予土線全通の記念碑がありました。
この区間が開通したのは、いわゆる国鉄再建法で新規のローカル線の建設がほぼ全て凍結される6年前。建設が遅れていたら、あるいは建設が土佐くろしお鉄道の手に委ねられたか、はたまた阿佐線の甲浦から奈半利と同じ幻の路線に終わっていたかも知れません。
木材をふんだんにつかった駅舎。三角屋根と大時計が強い印象を与えます。
駅の右手は、旧大正町の中心街。今は支所となったかつての役場やスーパー、さまざまな商店が並んでいます。
そんな街につながる道路の上、案内標識に目が留まりました。
見るからに新しそうな、少なくとも国鉄分割民営化後に作られたのは間違いなさそうな標識に、書かれているのは「国鉄」土佐大正駅。そう言えば、十川駅の案内標識も国鉄になっていたような……
どういうことかと調べてみると、こんな話が出てきました。
■ 四国の駅と車窓88箇所巡り 〜第33番札所 土佐大正駅〜
かつて「国鉄」の上に"JR"の文字を貼り付けていたのが剥がれてしまい、ただ面白いのでそのままにしていたという話です。
しかし、今目の前にある標識は、それより明らかに新しいもの。せっかくだから、架け替えるならいっそそのままで、ということなのでしょう。これが当たっていたとすれば、相当洒落っ気の利いた話ですが、お役所からは何も言われなかったのでしょうか。
国鉄無き今、土佐大正駅はもちろんJR四国の駅です。ただ、JRが国鉄になっていようと、困る人が出てくるとはあまり思えません。とは言うものの、高知県民の(悪?)ノリの良さ、あらためて脱帽です。
ノリの良さと言えば、街を歩いていると、こんな「銀行」に出くわしました。
四万十川焼酎銀行。建物の佇まいはいかにも金融機関ですが、しかし「焼酎」ときています。
正面玄関の傍らには酒壺があり、その手前に置かれた土台には、銀行の地図記号にもなっている分銅のマークに正中の文字。こちら、本当に焼酎の銀行なのでしょうか。焼酎を預ければ、利息が付く、とか?酒呑みの期待は高まります。
「銀行」の壁に、こんな案内が立て掛けられていました。
旧大正町は酒造会社無手無冠(むてむか)の本拠。栗焼酎ダバダ火振、と聞いてピンときた県外の方はかなりの呑み助通です。その無手無冠が作ったのが、この焼酎銀行というのです。
さらに調べてみると、こちらは本当に焼酎の銀行でした。
マイナス金利のこのご時世に、この定期の利率……駅の案内標識といい、この町だけ昭和の後半を生きているような気がしてきました。
銀行から引き返して、駅の付近に戻ってきました。駅から左手に向かう道はこの先で国道381号線に通じ、そこから四万十川沿いを走っていきます。
駅の中に再び入ります。きっぷ売り場はバスの案内所と一体化していて、改札らしい改札もありません。
さっきまで高校生が話に夢中になっていたベンチ。私が駅に戻ってきたときにはまだ何人かが残っていましたが、ほどなくバスの発車時間が来ると解散していき、駅舎の中は私だけになりました。数十分後に来る窪川行の列車に乗る生徒はいませんでした。
窓口の横にあった時刻表は、ほとんどがバスのもの。バスの運賃表も貼られています。鉄道に比べれば明らかに本数が多く、運転系統もいろいろあるので、当然といえば当然のことではあります。
そしていくつも貼られた紙の奥には、かつて運行していたバス会社の古い時刻表が今も残っています。昭和ではないものの、やはりここにも違った時間が流れています。
列車の時間が近づいてきました。手持ちのきっぷを誰に見せることもなく、ホームへと向かいます。
苔むしたコンクリートには、鉄道が開通した1974年の文字が、これも苔むしています。この辺りの建設工事が、予土線の中でも最後に残っていたことが伺えます。
ホームに上がって再び駅舎を見ると、その手前に花壇があるのが目に入りました。数少ない列車の合間を縫って、地元の方が整備しているようです。
JR四国の中でも、とりわけ乗客も列車の数も少ない予土線。それでも、鉄路を残そうと取り組み続ける人々がいます。
そうして40年余り守られてきた線路の上を、今日も列車が行き交います。
窪川行のワンマンカー、僅かな乗客を乗せて、次第に速度を緩めていきます。