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人には添うてみよ、馬には乗ってみよ、酒には酔うてみよ。

「被災者である/ではない」の挟間で:20年目の1月17日

 阪神・淡路大震災から今日でちょうど20年です。

 20年経つと、良くも悪くも、多くのものが変化します。去年から震災後に生まれた学生を担当するようになりました。そのぐらいの時間の長さです。

 私自身も、震災前より震災後の人生の方が長くなりました。突き放して考えれば、震災前より震災後の人生の方が、変化も重みもあると言うべきでしょう。

 その一方で、20年経ったとしても、そこで時が止まってしまった方もいるはずです。人の心の、一部分かも知れないけれど、年月によって変えられないものもある。

 変わっていくもの/変わらないもの、あの日被災地にいた人々の中にも、さまざまな違いがあって、年月はその違いをも際立たせています。

  

 先程、「あの日被災地にいた人々」という持って回った言葉を使いました。つまり、普通なら「被災者」で良いところを、私は使いませんでした。

 その理由は、法制度上の話ならとにかく、それ以外の、とりわけ心情的な話になった時に、どこからが「被災者」で、どこからがそうではないのか、私には分からないからです。

 他ならぬ私自身の、1995(平成7)年1月17日、5時46分30秒からの経験が、「被災者」という言葉を使うことを、許してくれないからです。

 私はあの日、激甚災害に指定された阪神・淡路大震災の被災地で、当時の震度階で震度6に遭遇しました。家財への被害は当然ありましたし、短時間の停電、数週間にわたる断水・ガス停止も経験しました。西宮市役所からは被災者証明書の発行も受けています。行政が私を正式に「被災者」と認めているのです。

  ただ、私の経験はそれだけ、たったそれだけなのです。

 震度7の揺れと被害に大火災まで加わった土地からすれば、所詮は震度6です。

 それに、家族や大切な人々、家や街を失った人からすれば、私が受けた被害など取るに足らないものかも知れません。

 さらに言えば、私が受けた被災者証明書の中身は「一部損壊」。「全壊」「半壊」とは単純に被害の程度が違います。こと西宮市の場合、住居や家財に一切被害がなかった人がいたとはとても思えません。当日市内で居住していた人であれば、余程のことがない限り、一部損壊の証明は受けられたのではないでしょうか。

 だとしたら、私の経験など「被害」などと呼べるだろうか。むしろ、当日被災地にいた人なら誰もが経験する程度の話かも知れない。

 私の想像を絶する苦難に見舞われた人が存在することを思えば、私が(法制度面はとにかく)被災者であると言ってしまうことへの抵抗感はありました。

 その一方で、あの日「被災地」にいなかった人々の中に、あの日「被災地」にいた私が「被災者」の1人に見えた人は、決して少なくなかったはずです。

 例えば、かつてモンゴルに留学していた時、モンゴルの人々を相手に「神戸の大学から来た」と自己紹介すると、「ああ、地震のあったところだね」と反応されることがしばしばでした。そして、その後はたいてい「大丈夫だった?」と聞かれたものです。神戸という地名を出すことで、この日本人は地震を経験したのであろうという連想が働いたのです。

 これは、モンゴルの人々にとっても阪神・淡路大震災が衝撃であったことの表れです(ちなみに、モンゴル政府は地震直後に緊急支援物資を送り届けています)。ただ、それと同時に、自らを「被災者」の外に置いていた私が、他の人には「被災者」の中にいるように見える、という例でもあります。

 被災者ではない。でも被災者である。

 私は、どっちなのか?

 法制度や社会の中での立ち位置は、人の経験や心情まで決めてしまうことはできません。

 そんな中で、震災からしばらくの間、私は対外的には「(大した)被災者ではない」という態度を取ってきました。それは、私が被災者面をするには、はるかに重い被害に打ちのめされた人々に対して失礼だという理由もありましたし、大した被害を受けていないということで、震災の話を切ることができたという「逃げ」の面もあります。

 ですが、震災から10年ほど経った時に、ふと思ったことがあります。

 

 「大した経験ではなくても、それすら経験していない人に語ることには、意味があるのではないか?」

 

 そう思うに至った直接の原因ははっきりしません。ただ、あるとすれば、震災から年月が経つ中で、震災が忘れられつつある、あるいは自分も忘れつつある、という感覚がしばしば生まれたことがあるでしょう。あるいは、あの日被災地にいなかった人々との交流が増える中で、「被災者」という位置付けを受ける経験を、幾度となく繰り返したこともあるとは思います。

 さらに、阪神・淡路大震災はこの国にとって最後で最悪の震災にはなってくれませんでした。東日本大震災が起きてしまったし、あるいは、今後さらに大きな震災、大きな地震と災厄が来る可能性だって無視できない。私自身、高知で南海トラフ地震を経験するかも知れないのです。

 だとすれば、たとえ小さな経験であれ、それが無い人と共有することは、過去の人々の悲しみを無かったことにしないためにも、そして起きてはほしくないけれど、起こり得る未来の災厄に立ち向かうためにも、必要なことではないかと思ったのです。

 とはいえ、過去が変わるはずはない(ことこの件に関しては変わってほしくもないですが、正直)。私の経験の軽さ自体は、一切変わることはないのです。

 被災者ではない。でも被災者である。どちらでもある、だからどちらでもない。私がそんな挟間の中から出ることは一生ありません。

 できることがあるとすれば、そんな挟間の存在になってしまった、そしてそこから出られるのは私が死ぬ時であろうことも含めた、震災の経験を語ること。

 それは、災害によってその挟間に落ちる人、もちろん挟間どころではなく、自らや大切な人々の生命、持ち物、人々とのつながりを失う人が、これ以上増えないためにも、あるいは少しでも増えることを食い止めるためにも、避けられないことであろうとは思っています。